円覚寺縁起と
信仰の歴史

円覚寺縁起

円覚寺縁起イメージ画像
円覚寺は大同二丁亥年(807)、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷東征のときに、厩戸皇子作の十一面観世音菩薩を安置し、観音堂を建立したのに始まると伝えられています。
その時、田村麻呂が兜の中に納めていたと伝えられている影顕石守仏(えいけんいしまもりほとけ)が、今なお、円覚寺に保存されています。

その後清和天皇の貞観十戊子年(868)に、泰澄大徳の弟子で浄定行者の末弟の円覚法印が、修験道を奉じて諸国の霊山を遍歴、この地に来て観音堂を再興しました。
この円覚法印が大和の国の人で当寺の開基です。寺号は開基に由来しています。

江戸時代までは、当山派修験宗の寺として加持祈祷を行う山伏寺でした。
津軽三十三ヶ所観音霊場第九番札所の見入山観音堂は当寺の修行道場でした。
明治五年、修験宗廃宗に伴い古義真言宗醍醐派となり、現在に至っています。

この様な歴史的な背景により、当寺は「祈祷寺」なのでお葬式をするお寺ではありませんから、檀家は一軒もありません。

また、坂上田村麻呂が安置したと伝えられるご本尊は三十三年目毎のご開帳で、次回は2051年7月17日開白の運びです。

豪族の庇護

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当寺は檀家のない寺ですので、その時々の豪族の庇護を受けて堂宇の建立・修復をしてきました。

古くは、平泉の鎮守府将軍・藤原基衡(ふじわらもとひら)公をはじめ、室町時代には葛西木庭袋伊予守頼清(かさいきばくらいよのかみよりきよ)が堂宇を再建しています。

葛西木庭袋伊予守頼清の寄進で現在も残る薬師堂内厨子は、青森県内最古の建造物で国指定重要文化財に登録されています。

江戸時代になると、津軽藩の祈祷所となり、藩祖為信公が黄金の大日如来尊像を寄進いたしました。
歴代の藩主も帰依篤く、たびたび堂宇の建立や修繕をしています。

古文書に残る記載を列挙してみると、
寛永元年(1624)二代藩主信牧(のぶひら)公が本尊台座、光背を彫刻寄進。
寛永二年(1625)二代藩主信牧(のぶひら)公が堂宇を再建。
明暦元年(1655)三代藩主信義(のぶよし)公が堂宇を修復。
寛文七年(1667)四代藩主信政(のぶまさ)公が堂宇を再建。本尊に彩色箔仏荘厳。
元禄十三年(1700)四代藩主信政(のぶまさ)公が堂宇を再建。
享保十三年(1728)五代藩主信寿(のぶひさ)公が堂宇を修復。
と、記されています。

この様に藩庁からの庇護篤い格式高い寺であった為、一般の信者の宿泊は一切禁じられていました。
なお、現在の本堂は大正五年~九年(1916~1920)、深浦の船大工によって再建されていますが、材料の一部・柱などが、寛永二年と元禄十三年に建てられたお堂のものを再利用しています。

北前船水主たちの信仰

北前船水主たちの信仰イメージ画像
江戸時代には津軽藩の庇護のほかに、北前船等の商人、船乗りの信仰を集めた寺でもありました。
京・大阪と蝦夷地とを結ぶ北前航路の寄港地で、「澗口観音」(まぐちかんのん:港の入り口にあって航海安全・商売繁盛を守護する観音様という意味)と船頭・水主たちに崇敬されました。

この時代は、航海中に嵐に遭うと、まずは帆をおろしたり積み荷を捨ててしまったりしますが、それでも助からないとなると船乗りたちは自分の髷を切り落として神仏に祈願したそうです。
そうすると、当寺の老杉の梢に光が灯り船乗りたちを導いたといいます。

そうして助かった船乗りは、その切り落とした髷を奉納していきました。
今も残されている「髷額」です。
その北前船の船絵馬が70点、髷額が28点、国重要有形民俗文化財ならびに日本遺産に指定されています。

また、北前船の豪商・高田屋嘉兵衛の奉納した「ギヤマン玉」「シャンデリア」も残されています。
お堂へ続く石段や石灯籠、土台石、古伊万里、古九谷、塗り物、蝦夷錦、青玉なども北前船賑やかなりし頃の名残を今に伝えています。

これらの文化財と歴代住職の仏道修行の仏画などは、寺宝館(篤学館)に常設展示されています。
詳しくは寺宝拝観のご案内へ

主な行事(円覚寺)

主な行事(円覚寺)イメージ画像

一月 一日 新年除災招福祈願護摩祈祷
一月 十一日 船玉供(海上安全・大漁満足祈祷)
旧暦一月 十一日 船玉供(海上安全・大漁満足祈祷)
一月 十七日 初観音供
旧暦二月 一日 春祈祷(仁王会 厄除け・家内安全祈祷)
(旧暦二月一日が彼岸に入ってしまう場合は彼岸入りの前日)
旧暦四月 八日 灌仏会(花祭り)
七月 十六日 本祭(宵宮)
柴燈護摩、火渡り行法
七月 十七日 本祭
大般若経六百巻転読観音護摩大法要
八月 二十四日 地蔵夜祭
九月 十五日 見入山観音堂本祭(津軽観音霊場第九番札所)
十二月 十七日 納観音供産土講(裸参り)

主な行事(円覚寺巡礼会)

主な行事(円覚寺巡礼会)イメージ画像

六月第一月曜日 津軽三十三ヶ所観音霊場巡拝(春巡拝・日帰り)
九月第一金曜日~土曜日 津軽三十三ヶ所観音霊場巡拝(秋巡拝・一泊二日)

詳しくは円覚寺巡礼会へ

Origin of Engaku-ji Temple by English

Engaku-ji Temple Photo
Engaku-ji temple dates back to the 9th century.
The great conqueror, Sakanoue No Tamuramaro, built a temple dedicated to the Kannon (the Buddhist God of Mercy) and put the eleven-faced Kannon into the temple at this place in 807.
The eleven-faced Kannon was supposedly made by Shotoku Taishi (who was the greatest prince in Japan in the early 7th century).
After that, a Buddhist priest named Engaku Hoin came here from Nara and rebuilt the temple in 868. Engaku-ji temple was founded at that time.

Point of Interest
Important Cultural Property of Japan
Miniature shrine in Yakusi hall
Miniature shrine of 600 years ago
Important Corporeal Folk Cultural Property
Marine Faith Material Dedicated to Engaku-ji temple